QR

すず(泉)
神社・寺・史跡
先人・寺子屋師匠
歴代村長

すず・社寺・史跡 map
先人・民俗芸能 map

鬼剣舞
田植え踊り
神楽
奴子踊・盆踊・祝福芸・太鼓
画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
 鬼剣舞 個別表示
 
 1.滑田鬼剣舞 (11区) 鬼剣舞
国指定重要 無形民俗文化財
 鬼剣舞の起源は大宝年間(701~704)とも、大同年間(806~810)ともいわれ、康平年間(1058~1065)に黒沢尻五郎正任がこの踊りを好んだことから広く伝わったと言われています。滑田鬼剣舞は岩崎鬼剣舞の流れをくみ明治34年(1901)に岩崎鬼剣舞から秘伝書を伝授されました。
 その後、谷地・飯豊・村崎野・二子などの弟子剣舞を育てました。
 岩崎鬼剣舞が神仏分離後に伝承を中断した神楽系の踊り「三人加護」・「狐剣舞」を含めて18演目を伝えています。
 
 2.御免町鬼剣舞 (8区) 鬼剣舞
市指定 無形民俗文化財
 御免町鬼剣舞は明治25年(1892)頃から岩崎鬼剣舞から指導を受け、明治30年(1897)に秘伝書を伝授されました。この時、御免町が岩崎に提出した誓約書の中で初めて「鬼剣舞」という言葉を使いました。鬼剣舞は北上周辺に伝わる威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけた勇壮な踊り
「念仏剣舞」が正式な呼称で「鬼剣舞」は明治後期以降の呼称と思われます。
 昭和45年(1970)、旧江釣子村行政区が改編され御免町・川内家・大坊が江釣子8区となったことにより、行政区内の横の繋がりが密になり現在に至っています。
 
 3.谷地鬼剣舞 (4区) 鬼剣舞
市指定 無形民族文化財
 明治43年(1910)、滑田中通りの先代小原慶五郎・小原西蔵・伊藤専次郎ほかの方々から指導を受けて始まり、大正元年(1912)7月15日に「念仏剣舞由来一巻」と「念仏剣舞秘伝書二巻」を伝授され、谷地鬼剣舞として独立しました。
 平成2年(1990)に80周年式典、平成22年に100周年式典を行っています。
  
 田植え踊り 個別表示
 
 4.春田打 (8区) 田植え踊り
県指定 無形民族文化財
 春田打は舞型や踊りに面を用いるなど、猿楽能的な要素を持っています。このため、田植踊の原初的な「田遊び」の一種と考えられています。伝承では天正4年(1576)、新渡戸対馬守胤重が江釣子七千刈を領有した際、新渡戸家累代の守り本尊の十一面観世音を安置する観音堂
(人当山新渡戸寺)を建立し、その落慶祝いに地元の妻川・川内家集落の農民に春田打を舞わせ、農作の豊穣を予祝したのが始まりと言われています。現在、春田打は江釣子以外には伝承されていません。
 
 5.荒屋田植踊 (1区) 田植え踊り
市指定 無形民族文化財
 田植踊の由来は遠く鎌倉時代ですが、本村に伝わったのは「えんぶり摺り」対話の弥十郎本によれば、今から300年以上前の延宝元年(1673)、奥羽盛岡和賀郡下江釣子村の地の神御堂建立(江釣子神社遷座改築造営)の際、棟梁大工「しだの匠」が作った「えんぶり」を中心として踊ったものが
田植踊であると書かれています。
 元来、田植踊は旧正月を中心に前年の豊作を祝うとともに、今年の豊作を願う予祝行事で、重い年貢米を上納し、かつ余裕米があった年に限り踊られたものとされています。
 荒屋田植踊の歴史は古いですが、一時中断し戦後の昭和21年(1946)に有志数名によって復活しました。以前は子どもたちも中学校卒業まで踊っていましたが、今では小学生だけになっています。
 
 6.鳩岡崎座敷田植踊 (14区) 田植え踊り
市指定 無形民族文化財
 今から150年程前、鳩岡崎の住人数名が農閑期の寸暇を利用して仙台藩黒川郡七ツ森地域に出稼ぎに行き、その地の有名な芸能、座敷田植踊に見とれていたところ、熱心な観察さを見込まれ婿養子に声をかけられました。数ヶ月後、踊りを身に付け婚礼の日取りまで決まっていた婿養子を断り、郷里に帰り地域民に普及指導しました。
 座敷で踊るため早乙女は振袖に髪差しを差して踊ります。銭太鼓・手拭踊りは他にみられないのが特徴で、県内でも鳩岡崎だけと言われています。
 
 7.江釣子宿田植踊 (3区) 田植え踊り
 宿田植踊はおよそ430年前、新渡戸氏が新渡戸観音を建立した時に落成祝いに踊られたと伝わっています。戦後一時復活した後に中断していましたが、昭和49年(1974)に地域に伝わる諸芸能を整理して翌年復活しました。小正月にその年の豊作を祈願して庭元を先頭に門かけのニワに振込んで踊ります。
褒め言葉、返し言葉があり、かつては「ちょげこ」と呼ばれる狂言や春田打等もあったと言われますが、現在は臨機に応じて踊られています。
 
 8.川内家田植踊 (8区) 田植え踊り
 毎年小正月に豊作予祝行事として鎌倉時代に起源する有名な春田打と共に伝承されてきた庭田植踊です。大正初期までは現在の妻川部落の田植踊と一緒でしたが、部落の講中が二分されてからは、別々に保存され伝承されてきました。現在、江釣子中学校芸能発表会で一部伝承し発表しています。
 
 9.妻川田植踊 (9区) 田植え踊り
 春田打とともに伝承されてきた庭田植踊です。文献と口伝によれば和賀薩摩守義春の家臣の新渡戸対馬守胤重公(新渡戸稲造博士の12代前の先祖)が天正4年(1576)に江釣子七千刈を領有した際、妻川地区(現在の江釣子9区)に新渡戸家累代の守り本尊の十一面観世音を安置する
観音堂(人当山新渡戸寺)を建立し、その落成祝いに地元民が踊ったのが始まりと言われています。
 現在、江釣子中学校の芸能発表会等で全演目の中から一部を伝承して発表しています。
 
 神楽 個別表示
 
 10.荒屋山伏法印神楽 (1区) 神楽
 三月田山伏神楽の継承者であった高橋嘉蔵から藤田九兵エ・藤田定助・藤田浅之助・小笠原政衛門の4名が神楽の指導を受け、更に昭和5年(1930)に当地区へ養子に入った菊池梅蔵が加わり荒屋神楽として活動を開始しました。この年から江釣子神社火防祭に参加。
以来今日まで春の火防祭、秋の神幸祭に参加しています。
  昭和61年(1986)、神楽の旗を作成するにあたり江釣子神社の江釣子秀保宮司から荒屋法印神楽と命名していただき、現在に至っています。
 
 11.道の上山伏神楽 (10区) 神楽
 江釣子の自性院(後の貴徳院・)に伝承され、権現二頭が保存されています。その後、明治時代中期に道の上集落の熊野神社別当(屋号:西村)が旧滑田村の文化の発展、家内安全祈願を兼ねてこの権現舞を受け継いだと言われています。明治時代末期には江釣子神社の社掌高橋宮助が
主宰する宮助神楽から及川久治・千田彦次郎・菊池孫太郎が習得しました。更に昭和17年(1942)、高橋徳一ら5名が入会し、その後は五段階に入会者が続き現在、会員15名です。平成23年(2011)年、創立70周年記念行事を行いました。
 
 12.中通り山伏神楽 (11区) 神楽
 旧江釣子村三月田で高橋宮助が三月田山伏神楽(別名:宮助神楽)を主宰していました。宮助の長男、高橋嘉蔵が三月田山伏神楽を引き継ぎ、多くの弟子を育て嘉蔵神楽と呼ばれ親しまれていました。中通り神楽は宮助神楽、嘉蔵神楽から明治30年代頃に、小原重三郎・千田慶五郎・
高橋幸吉・小原久太郎等々が一念発起して三月田神楽の内、権現舞の指導を受けて発創しました。その後、戦時中に後継者不足もあり他系列の神楽と混同して元の山伏神楽が一変してしまいました。同系列の和賀町長清水山伏神楽に懇願して指導を受け、元の中通り山伏神楽の復元を図って現在に至っています。
 
 13.下糠塚権現舞 (12区) 神楽
 下糠塚権現舞は、明治時代の中期に飯豊町村崎野から伝授されたといわれています。幕神楽は後継者不足で伝承されていません。昭和3年、二代目に引継がれるが後継者難で中断し昭和37年3月、北上市二子町の上宿和賀神楽から伝承を受けています。
 その後も後継者が心配されましたが、平成2年下瀬川喜章氏の働きにより喜章宅別室で親類神楽が結成され、その後に下糠塚権現舞の一員となり現在に至っています。
 
 14.新平神楽 (13区) 神楽
 由来を伝える資料はほとんど残っていませんが、口伝によれば江戸時代末期に現在の花巻市南笹間の万法院に伝承されていた神楽から隣の新平集落に伝えられたと言われています。山伏系の流れをくみ伝承されている舞は、テンポの早い軽快な動きと独特な流れを構成していますが、
いずれも神を意味するもので、清水を捧げ無病息災、商売繁盛を願い、山海の幸と五穀豊穣等を祈願する舞です。
 
 15.下条和賀大乗神楽 (17区) 神楽
 下条和賀大乗神楽は山伏系の流れをくむ神楽で、江戸時代末期の嘉永年間に南笹間から村崎野と煤孫に伝わり、更に村崎野の伊勢神社別当から下舞と権現舞が小鳥崎に伝えられ、これを昭和27年(1952)に伝承したものです。保存会は昭和57年(1982)2月に会員20名で結成され、
平成24年(2012)に結成30周年を迎えることができました。
 現在は、地区の八幡神社と白山神社の元旦奉納、春の例大祭奉納と地区の門付け、北上みちのく芸能まつり、秋の例大祭奉納、古墳まつり等で演じています。
 
 16.曽山岳神楽 (15区) 神楽
 曽山地区の神楽は大正5年(1916)に権現頭が彫られていることから、その頃に始まったとされています。一時中断していましたが、平成4年(1992)に150年の歴史のある二子町の岳流川端神楽に指導をお願いして2年間にわたる特訓を受け、平成6年(1994)に独立が認められ曽山岳神楽として復活しました。 
この名前の由来は、早池峰岳神楽系統であることにちなんでつけたものです。

 奴子踊・盆踊・祝福芸・太鼓
個別表示
 
 17.台笠 (12区) 奴子踊・盆踊・祝福芸
市指定 無形民族文化財
 江戸時代の華やかな大名行列踊りで、慶長元年(1596)、奥州土沢(花巻市東和町)の土沢城落成の祝いに大名行列踊りとして家中で踊ったのが台笠の起こりとされています。明治元年(1868)の頃、沼田(北上市村崎野)の青年がお国入りの大名行列を見て踊組をつくりました。
その後、明治5年(1872)に滑田に伝授されました。大正5年(1916)に中断しましたが、昭和25年(1950)に復活しました。太鼓笛、三味線、唄上げ、踊り手で、演目は道具踊、毛槍踊、手踊、添え踊(船方、花みよし)があります。
 
 18.全明寺盆踊 (3区) 奴子踊・盆踊・祝福芸
市指定 無形民族文化財
 全明寺盆踊はおよそ350年前、奥寺堰の恩恵を受けた江釣子など周辺の農民の間で踊られたことから伝わったと言われています。全明寺には奥寺堰開削の功積により三代将軍徳川家光から下賜された葵の紋入りの袈裟があり、寺宝になっています。
四世住職大迦和尚と奥寺八左衛門の逸話が歌詞にもあります。踊りは浴衣に半巾帯を後に垂れ下げ、笛や太鼓に合わせてお盆や古墳まつりでも踊られ、壮大な規模になることもあります。
 
 19.曽山さんさ踊 (15区) 奴子踊・盆踊・祝福芸
 この種のさんさ踊は約200年前、安永初期から南部藩を中心に念仏踊りとして各地に奉納されてきました。旧盆に遠い祖先を偲び踊り、唄い継がれてきました。今では矢巾町不動地区、黒沢尻地区、江釣子地区にしか残っていないようです。曽山さんさ踊は全明寺盆踊と小鳥崎さんさ踊を
合体させて伝承されてきたと言われています。妻川から曽山に嫁いだ菊池キミコが踊りを振付けるなどして、曽山地区を中心に江釣子15区全体に広めてきました。
 
 20.新平そそりさんさ (13区) 奴子踊・盆踊・祝福芸
 日平駅家の里に住む先人達が作業唄として地元の若衆達の暮らしぶりを唄と踊りに描写したものです。農作業や馬の世話をしながら過ごしたり、小作人や若衆達が仕事の区切りがつき作業から解放された「おおっきり」(休日)や大雨等で仕事ができない日に酒を酌み交わし、
解放を味わった光景でもあります。 この唄と踊りは人数が多いほど様になりますが、俗語では「ビッキおどり」とも言い、みんなで酒を飲みながら男たちが唄い、女たちが「ビッキ」(蛙)のように飛び跳ねて踊りだし、盛り上げる様子を表わしています。「そそり」とは士気をかき立てることで、そそのかすという意味でもあります。 時代の変貌と生活環境が変わったことで中断されていましたが、次の世代に残していこうと地区が一体となり復活させたものです。
 
 21.新平七福神舞 (13区) 奴子踊・盆踊・祝福芸
 旧飯豊村(北上市飯豊)から昭和24年(1949)に多田長治郎や愛好者が教わり、祝舞として集落の慶事ごとに演じられてきました。この舞は、七柱の福徳の神を総称しためでたい仮装姿で演ずるものですが、古くは室町時代末期から演じられ全国的には南の地方に多く、新年の社寺を
巡拝して福徳を祈る神とも言われています。恵比寿(律儀の神)は天照大神と同じ日本在住の神であり、「古事記」では蛭子三郎とも呼ばれ、いざなぎ・いざなみ二神の子とされています。中世以降にえびすと呼ばれました。無病息災・子孫長久・家業繁盛を授けます。七福中この神以外は唐天竺(中国・インド)の生まれです。本県では沿岸地方や陸前高田市、奥州市胆沢区にも伝承されていますが、表現のかたちが異なっています。現在、六代目として婦人部が中心メンバーとなって継承しています。各種大会、例大祭、祝賀行事等で活躍している傍ら、子弟への伝承活動にも力を傾注しています。
 
 22.古墳太鼓 (6区) 太鼓
 江釣子中学校芸能発表会を契機に猫谷地・五条丸・本宿地区にも新しい芸能の導入を図ろうと地域で検討して、太鼓での芸能を創作することを決めました。江釣子6区地域には猫谷地古墳群・五条丸古墳群があり、その古墳をテーマとした曲を太鼓で表現したのが古墳太鼓です。
平成元年(1989)9月23日、第23回古墳まつりに初演、翌平成2年4月から地区の中学生に太鼓指導を開始し、8月の江釣子中学校芸能発表会に中学生だけの古墳太鼓を初披露しました。以後、毎年中学生に指導を行っています。盆踊大会、北上みちのく芸能まつりへも出演し、発表の場を提供するとともに保存会へもOBが入り活動しています。