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  1.白山神社 北鬼柳
 祭神年代等不明で、元観音堂であるといわれ相当古くからあったお堂ですが詳細は不明です。
 
  2.八坂神社 北鬼柳
 明治39年の火事により堂社、その他文献なども焼失し建立年代等詳しくは不明。
 
  3.八幡神社 北鬼柳
 建立年代等不明ですが、明治維新までは阿弥陀尊を本尊として誉田別命を合祀して元岡田村の鎮守としていたと思われます。明治維新となり神仏混淆を禁じる上祇官通達により仏像仏具は別当家に蔵され、県より御樋代品陀和気命が下附され今日に至ったものと思われます。
 
  4.江釣子神社 きたかみ景観資産 No.102 宿
 建立年代は不明ですが、伝説によると、嘉禄元年(1225年)9月19日下江釣子に禰宜の五郎という者がいて、その子、六郎が長い間病気で回復の兆しが見えなかった。 ある日、神の霊夢があり和賀川鑓水で釣りをしたところ、観音像がかかりこれを祀ったのが始まりといわれています。
 まもなく六郎の病が全快したと伝えられています。 宝暦2年(1752年)社殿を再興し江釣子大明神として祀られ現在に至っている。
 
  5.妻川神社 妻川
 お堂のほかに、小石を積み上げた塚があり、その頂点に道祖神、山神と刻した石碑がたてられており、小さい石の祠もあります。寛仁元年(1017年)に安倍貞任が雲井御前を伴って領内めぐりの途中この村に泊まりましたが、賽之神を祈願して無事に高星丸という男の子を安産しました。
 貞任は大い喜んで「茂子安之妻之神」とまつれと言われ、村の名も妻川というようになったといわれています。
 
  6.熊野神社(野田熊野) 下江釣子
 残っている記録によると、開闢は全明寺開祖為円祥輪和尚でその後四代大迦和尚、奥寺八左衛門に夢の示現があり元禄14年に熊野三山を分霊し、また明治14年に御神体を観請したとあります。
 
  7.山祇神社 きたかみ景観資産 No.100 鳩岡崎
 天正12年(1584年)相野玄番資道が岩崎の古舘より分家して鳩岡崎舘に住居を移し、太子堂を建立したのが始まりといわれています。この聖徳大使像は嘉祥年間(848-851)慈覚大師の作で京都の醍醐寺に歓請したものとも伝えられています。天和3年(1683年)鳩岡崎舘より稲荷社のあったといわれる現在の地に移転しています。
 稲荷社は稗貫郡万丁目村に移転したようですが、なぜ移転したかは不明です。元は太子堂と称していましたが、明治維新の際に大山見命を合祀して山祇神社と改称しました。
 
  8.綿積神社 法量
 永享六年(1434年)に下瀬川近江という人が和賀町煤孫の法量野に海神を祀る法量大権現を建て、その子孫が正保元年(1644年)に滑田に大権現を移しました。明治初年に綿積と改称しています。法量大権現のあるところとして、部落名も法量と呼ばれるようになりました。
 別説は、岩崎の法量野に、源義経の家来佐藤継信の一族が住んでおり、その子孫佐藤嘉門は建歴(1211年)の頃、滑田に移り氏神である海神を祀ったとあります。
 
  9.天照大神宮 新平
 元和元年(1615年)頃に伊勢皇大神宮より、伊勢信仰を広めるために東北地方を巡幸した際、行在所になったところに五穀豊穣、家内安全を祈願し、堂宇を建立したのがはじめであり、明治維新後、この社を新平部落の鎮守として今日に至ります。 明治21年(1888年)堂宇焼失により文献等の記録は極めて少ない。
 
 10.八坂神社 きたかみ景観資産 No.110 滑田 長根
 もと、滑田村の鎮守として祀られた観音堂で、荒屋大坊にありました。弘化2年(1845年)の検地まで荒屋大坊は滑田村に属していましたが、この検地で上江釣子村に編入さ、滑田村の鎮守とすることができなくなり、同年4月、現在の八坂神社の境内に新しく観音堂を建て滑田村の鎮守としました。
 明治7年、八坂神社に改称し、須佐之男命を祭神としています。 
 
 11.稲荷神社 滑田 長根
 由緒伝来等不明ですが古い創建と伝えられています。耕作の神として祀られたものと思われます。
 
 12.熊野神社 滑田 道の上
 由緒年代等不明ですが、以前は別当宅を含め周囲に堀があって古き舘跡を思わせる地形であったといわれています。
 
 13.田神社 滑田 中通り
 由緒等不明ですが、農耕水神として祀られたものと思われます。
 
  14.水神社 きたかみ景観資産 No.113 滑田 中通り
 薬師川に流れてきたお地蔵様を拾い上げ、水神様として祀ったのが始まりと伝えられています。
 
 15.白山神社 滑田 中通り
 由緒不詳ですが、大洪水の際に流れてきた像を農耕の神として祀っています。

 
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  1.全明寺 きたかみ景観資産 No.106 宿
 曹洞宗 日月山 全明寺。本尊は釈迦如来。天文21年(1552年)金ヶ崎永栄永徳寺の末寺として開基されました。当世住職18世で460年の歴史を刻んでいますが、2回か3回の火災により文書等が焼失し詳しいことはわかりません。 和賀原野を水田に開拓した奥寺堰開拓事業に協力した4世
大迦和尚の功績により徳川幕府から葵の紋付袈裟をいただき今尚保存されています。又、明治25年大供養追吾歌額に二百人一首が掲げられ特異な額として注目されています。 伽羅の一つである梵鐘が先の戦争に供出され鳴らずの鐘が、寺開廟450年を期し三度鋳造され、平成17年建立されました。
 
  2.通来寺 蔵屋敷
 浄土真宗 東本願寺派 月光山 通来寺。本尊は阿弥陀如来。記録によると、大永2年(1522年)開祖善空が草案を建て、寛永18年通来寺と改称したとあります。また昭和元年の七代円可の書上した由緒によると、盛岡市本誓寺末寺であり和賀郡江釣子村甲田(元下江釣子(堺田)七地割)にあったとあります。昭和23年4月、現在の場所へ移転しました。
 
  3.雷神 野中
 由緒等は不明ですが、昔からこの地にあり、雷神を祀っています。
 
  4.毘沙門 きたかみ景観資産 No.108 佐野
 建立年代由緒等は明らかでありませんが、明和元年堂社再興の棟札に記載されるところ、南部十四代利雄公の名により惣奉行坂牛新五左エ門、代官太田源太夫、平賀儀兵エが担当し「太守公御武運長久、天下泰平国家安全」を祈願したとあります。
 この地域から鎌倉期から南北朝初期といわれる
板碑が二基あらわれました。阿弥陀如来の種子キリクという梵字がほられてあり、双式碑という地頭夫妻の石塔婆であるといわれています。これらのことから和賀氏の守護神として祀られたものと思われます。
 
  5.荒屋観音堂(薬師如来) 荒屋
 本尊は薬師如来座像。ほかに5体の仏像があるが、元は8体あったといわれています。 詳しくは不明ですが、昔、藤田小坊というお坊さんが戦火を逃れてこの地にたどりつき開いた薬師堂であったと伝えられています。荒屋薬師神社ともいわれています。
 
  6.青面大金剛尊 荒屋
 昭和12年に火事で文書等が焼失し詳しいことはわかりません。田の神(農耕の神)が祀られているそうです。
 
  7.新渡戸観音堂 妻川
 人当山 新渡戸寺。本尊は十一面観世音。天正4年(1576年)、和賀氏の家臣新渡戸対馬守胤重が江釣子七千刈を領した際、この地に新渡戸家累代の守本尊を安置する一堂を建立したのが始まりといわれています。 また、当国三十三ヶ所の二十七番札所。以前は近郷では同行者を募り紫波、
旧稗貫、旧和賀の三郡に及ぶ三十三ヶ所の札所を巡拝する観音講の行事が盛んでした。
 
  8.貴徳院 宿
 本山修験宗 貴徳院。本尊は不動明王。永正の頃慈正僧都の開基と伝えられています。 現在までに養徳院、行徳院と寺号が変わり天保の頃より長く自性院と称していましたが15代秀仙の頃より貴徳院となり現在に至っています。寺としては800年ほどの歴史と伝えられており、和賀氏の祈祷所であったともいわれています。
 
  9.三日月不動尊 三月田
 本尊は座像不動尊。別当高橋家の祖先高橋宮助氏が明治初年頃自性院養孝僧都より法燈を継いだ際この不動尊を譲られたものと云われていますが詳細は不明です。 参道入口鳥居には三日月不動尊の額がありまた境内には牛頭天皇碑があり、牛頭天皇の境内に不動堂が建立されたものと推測されます。

 
 史跡 個別表示
 
  1.江釣子古墳群 五条丸支群 国指定史跡
 7~8世紀の古墳群で、川原石積みの石室をもち、周溝を伴う円墳です。蕨手刀・鉄鏃などの武具や勾玉・ガラス玉などの装飾品が出土しました。轡など馬具も出土し、当時の生活を知ることができます。国指定史跡です。 
 
  2.江釣子古墳群 猫谷地支群 国指定史跡
 7~8世紀の古墳群で、川原石積みの石室をもち、周溝を伴う円墳です。1号墳は江釣子古墳群で最も大きく、直径15mで、蕨手刀や小型壺などが出土しました。国指定史跡です。
 
  3.江釣子古墳群 八幡支群 国指定史跡
 7~8世紀の古墳群です。発掘調査は行っていませんが、他の支群と同じ川原石積みの石室をもつ古墳と思われます。国指定史跡です。
 
  4.新平遺跡 県指定史跡
 発掘調査で、堀跡や掘立柱建物跡などが発見されました。伝馬による古代交通の駅の施設である駅家跡と推定され、胆沢城と志波城の間に置かれた「磐基駅(はんぎのえき)」に擬定されています。県指定史跡です。
 
  5.全明寺板碑 市指定文化財
 鎌倉時代後期(14世紀前期)に供養のために建てられた石塔婆です。銘文を半分だけ刻んだ未完成の石塔婆です。市指定文化財です。
 
  6.江釣子城跡
 1590(天正18)年の豊臣秀吉の奥州仕置によって破却された中世の城館跡です。最後の城主は江釣子民部吉資といわれています。江釣子小学校付近に所在し、横黒線(JR北上線)の建設により城の主要部分は削られてしまい、堀の一部のみが残っています。
 
  7.江釣子館跡
 中世の城館跡です。自然の沢地形を利用した堀跡と土塁が北側に残っています。郭内には貴徳院があり、郭外に江釣子八幡が所在したといわれています。
 
  8.五条丸館跡
 中世の城館跡です。東西2郭からなり、西郭の西と北側に土塁が残り、西土塁の外側と東西郭の間で堀跡が確認できます。館主は不明です。
 
  9.鳩岡崎三館跡
 中世の城館跡です。西側に土塁が残り、発掘調査で掘立柱建物跡や堀跡が見つかりました。土塁の下から瀬戸産天目茶碗、柱穴から中国産白磁皿などが出土しました。この地域の有力者が居館を構えていたと考えられます。
 
 10.本宿遺跡
 縄文時代と古代の集落跡です。東北道の建設などに伴って実施された発掘調査で縄文時代後期初め頃の貯蔵用の穴や奈良時代~平安時代前半の竪穴住居跡などが見つかりました。江釣子古墳群猫谷地支群との関係も考えられます。
 
 11.鳩岡崎上の台遺跡
 縄文時代と古代の集落跡です。東北道の建設などに伴って実施された発掘調査で縄文時代前期終り頃から中期中頃の竪穴住居跡や貯蔵用の穴が見つかり、大型住居跡の発見で注目されました。奈良時代終り頃~平安時代の竪穴住居跡も見つかりました。
 
 12.蔵屋敷遺跡 きたかみ景観資産 No.109
 江釣子地区では数少ない弥生時代の遺跡です。発掘調査で集礫群が見つかり、弥生時代初め頃の土器が出土しました。
 
 13.下江釣子羽場遺跡
 古代の集落跡です。発掘調査で奈良時代後半から平安時代中頃までの竪穴住居跡が見つかり、集落が継続して営まれていたことが明らかになりました。
 
 14.下谷地遺跡
 東北道の建設に伴って実施された発掘調査で、平安時代中頃の墨書土器や木器が多数出土し注目されました。遺跡の周辺に役所に関連する施設が所在する可能性が考えられます
 
 15.八幡遺跡
 古代の集落跡です。発掘調査で古墳時代終り頃から平安時代中頃までの竪穴住居跡が見つかり、集落が継続して営まれていたことが明らかになりました。江釣子古墳群八幡支群との関係も考えられます。
 
 16.江釣子古墳公園 (カムイヘチリコホ)
 この公園(旧 江釣子工芸の村公園)は、見晴らしのいい自然を満喫できる公園で、公園内には多くの遊具の他に砂場や水遊びもできる小さな池などがある「ちびっ子広場」が、また隣接してサッカーボールなどでの遊びもできるコートもあり、お子さんと一緒に家族や友達と楽しめる公園です。
 公園の北側にはアイヌ語の「神々の遊ぶ所」を意味する「カムイヘチリコホ」(写真)という古墳をイメージした神秘的な造形物もあります。
 他にも、公園脇の歴史の並木道には、北上の歴史と文化に触れることが出来る遺跡などを紹介するモニュメントなどもあり、遊びと学びが出来る公園でもあります。