すず(泉)
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江釣子の先人
寺子屋師匠
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1.右馬之助定輝 (大釈和尚)
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全明寺4世住職、寛文5年(1665年)兄の奥寺八左衛門定恒に新田開発を勧め大迦自身も奥寺堰開発のため、兄八左衛門を助け神仏に加持祈禱しながら工事の監督に当るなど奥寺上堰下堰の完成(1679年)に寄与した。この功績に対して将軍家から贈られたという葵の紋章入25条の袈裟が現存している。 |
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2.後藤与左衛門 |
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新田開発を藩に嘆願書提出(嘉永4年(1851)8月)は画期的な変革を意味するものであった。それまで藩の財政困窮を救済する意味もあって開発高一石につき銭一貫文の御礼金納入と定めていたが嘆願書提出以来御礼銭を納入するに及ばずと布告され知行所の近辺での新田開発希望者は願い出るべしと布告され正に画期的な施策であった。 |
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3.江釣子民部吉資 |
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天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置によって破却された中世城館「江釣子城」の最後の城主といわれている。江釣子氏の出自は不明である。明治元年の支配帳では、江釣子熊五郎家、江釣子久機家、隆左衛門家、江釣子荘助家が見える。江釣子地域での土地所有者は、江釣子民部の孫、彦右衛門吉遠の子久衛門吉次の子孫が継いでいると思われる。この家系と貴徳院の歴代僧都との関係が、不明である。 |
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4.菊池市右衛門 |
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文政5年(1822)下江釣子妻川に生れる。(現在の菊池裕家)一関の千葉六郎氏に師事し、算法の秘法や土木技術を習得し、南部家領土の検地において、上成績として時の役人により賞される。当時、仙人峠を越えて、沢内 湯田への通行は困難で、不便と地域の不利益を余儀なくされていた。このことを当時の県知事が羽州街道を通行の折、黒沢尻に寄宿した際に三浦専治氏より下江釣子村に有能な建設技師が居ることを知らせられ、早速、登用し仙人峠を人馬通行の便宜を図るよう菊池氏に命じた。菊池氏は直ちに人夫を雇い、測量等行いながら炎暑、炎熱にも拘わらず改良工事を完成させた。(明治7年―1874年) |
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5.佐藤久右エ門 |
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天保7年(1836)7月10日明治初期よりの村社山祇神社の別当を務める佐藤家の二男として鳩岡崎村22番戸(堂前)に生れる。(現在の佐藤重雄家)平成13年に発見された鳩岡崎文書のうち村末期の明治18年(1885)に書かれた「用水ニ係ル地割番号調書上」から明治21年(1888)の「東和賀郡滑田尋常小学校学資金寄付願」までの8点の文書に組惣代佐藤久右エ門の名が見える。 |
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6.斎藤台蔵 |
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明治42年(1909)江釣子村消防組が創設され、初代組頭として任命される。江釣子消防組織の生みの親であり、育ての親で、創設時代の育成に情熱を傾け、消防組織の強化拡充に尽力された。昭和7年(1932)現職のまま病死した。 |
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7.髙橋萬之助 |
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文政10年(1827)生まれ。下江釣子村才川(現在の髙橋功家)の人で天保の凶災を経験し、予防の方法を古老をとおして探求、自らも実験記録をとって証明した。明治21年「豊凶考察法」という著書によって岩手県知事に対し自らの発見した方法を県の機関によって試験を行い、ひろく県民を凶作の被害から救済してほしいと嘆願した。 |
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8.佐藤新蔵 |
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安政6年(1859)北鬼柳村佐藤九兵衛の子として生まれる。黒沢尻戸長役場(里分、町分、北鬼柳、鳩岡崎の四カ村)の書役から上京して明治法律学校で学ぶ。弁護士から政治の道へ。明治23年(1890)3月31日岩手県議会議員当選。平和街道開通以来10年、年々土石の崩壊、水害破壊が相次ぎ、往来に危険。維持修繕の予算獲得に大いに努力。明治25年(1892)4月県議会議員辞任。その後病気となり東京都本所区の自宅で明治26年(1893)1月1日逝去。 |
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9.佐藤權之助 |
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弘化3年(1846)11月下江釣子御免町に生まれる。幼にして農に従い農事の改良に加え農具の改良にも取り組む。村民が倣う者多く、効果を後世に伝え及ぼしている。明治45年(1912)3月16日当郡の篤農家として表彰される。大正3年(1914)1月3日逝去。 |
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10.後藤忠行 |
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嘉永3年(1850)3月3日紺屋を営んでいた後藤繁登の長男として鳩岡崎村戸(堂前)に生れる。江釣子村3代村長 後藤嘉津見は本家すじにあたる。南部家槍術師範青木俊蔵の門に入りその奥伝を得た。18歳で戊申の役に従軍して22歳で鳩岡崎村の村長に推され、壬申戸籍帳を編成して署名している。草創期の江釣子村の収入役に就任して村の基礎づくりに貢献した。明治42年(1903)8月13日没。 |
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11.髙橋富之進 |
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嘉永5年(1852)9月10日生れ。下江釣子村字宿の武士髙橋雄也常義(後に改め章三)の長子。富之進常時と名付けられた。明治9年江釣子小学校五等教師、学校づくりにも参画。滑田村外4か村の村役所に唯一村出身の戸長または書役として在勤10年、住民の心情を察して施政の官僚化から守った。江釣子村誕生とともに村政の中心となり、初代助役として初代村長髙橋半助を助けた。 |
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12.瀬川早水 |
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弘化3年(1846)8月10日江釣子村宿 元吟味役兼御鳥見役宮司義隣(後に義と改名)の長男として生れる。明治6年(1873)下江釣子1番小学校教師を申付けられ、全明寺に江釣子小学校を創設。明治32年4月26日江釣子村2代助役に就任、明治36年4月13日退任。その後板垣自由党の自由党の自由民権運動推進。 |
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13.瀬川 深 |
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明治18年(1885)1月5日下江釣子に生まれる。教育者で村2代助役でもあった瀬川早水の三男、一族の瀬川雅夫の養子。旧制盛岡中学では啄木の一年後輩にあたり、それぞれの発行する同人誌を合併して「爾伎多麻(にぎたま)」を発刊白羊会を創設、京都帝大医学部に進み、静岡県の浜松で小児科の医師となり、晩年は俳句を作る。啄木とは生涯にわたって変わらぬ友情を結び、啄木の深にあてた長文の書簡にそれを垣間見ることができる。
『落つる日よ さらば消ぬべき わが魂を 雲井のきはに 導きて去れ』の歌碑が江釣子郵便局前通りにあります。 |
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14.坂水弘太 |
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新市町村制により誕生した江釣子村の暫定村長として新村づくり。 |
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1.伊藤弥四郎 |
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文化2年(1819)、上江釣子に生れる。開業医の傍ら地元の学童の教育向上に務めました。 |
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2.江釣子養孝 |
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文政4年(1821)3月24日上江釣子村に生れる。上江釣子村字谷地 伊藤栄治氏に就き数学を学び、天保4年9月より黒沢尻泉照院保山光真に就き漢字を学び、弘化3年5月より黒沢尻和光院住職快孝師に就き仏学を修め、安政年間大峯山に修行、元治元年名を養全と改め、自性院住職となり寺子屋を開設して多数子弟を教導した。明治19年(1886)3月病没。 |
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3.伊藤駒太郎 |
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文政5年(1822)10月10日生~明治17年(1884)6月没。新平村二番戸生れ。博学にて多才、水から地方教化の任に当たり、自宅を以て寺子屋を開き、広く子弟を教育しました。 |
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4.石田賢随 |
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嘉永4年(1851)12月生~明治44年(1911)6月没。通来寺15代住職にして、6代村長 清谷有信氏の実父。明治3年盛岡本誓寺に於て僧得度、明治13年9月教導職志試補申付、同10月山形小教校正科卒業、学徳高き善知識にその教化の及ぶところは大きかった。 |
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5.佐藤勇蔵 |
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生年不詳。滑田男鳥に生れる。自宅で地元の学童の教育向上と相撲の普及に努めました。滑田の共同墓地には大正7年に手習と相撲を教わった人たちが建てた墓碑があります。 |
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6.渡辺昇 |
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文政9年(1826)11月30日生~明治26年(1893)8月23日没。滑田村大坊山門天台宗月光院住職秀安法印長男。17歳より27歳まで稗貫郡太田村清水寺住職宗孝僧都の徒弟となり、宗学研究をなす。28歳で上京、総本山聖護院宮に従い、大峯登柱根護摩法伝燈、帰郷。月光院住職免許宗務に従事。明治3年復職、滑田村八坂神社神職を奉じ、同年辞職隠居す。その間地域住民の教化に浴すること限りなし。 |
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7.渡辺泰助 |
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嘉永5年(1852)、滑田八坂神社の別当家に生れる(渡辺昇の長男)。滑田小学校と江釣子小学校で長年にわたり学童の教育に努め、江釣子小学校の初代校長にもなりました。 |
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8.藤原蓮助 |
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天保11年(1840)11月15日肝入りを務めた藤原伊佐見の長男として鳩岡崎村(横堰)に生れる。(現在の藤原勇次郎家)江釣子村発足直後の鳩岡崎地区の区長を務め寺子屋の運営にも尽力しました。 |
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9.伊藤丹弥 |
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藤沢稲荷神社の社主の傍ら、寺子屋を開き主として江釣子、藤沢村の子弟達に学問を教えていた。明治25年(1877)6月11日行年62才で没しています。 |
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10.菊池儀右エ門 |
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~明治10年(1877)8月28日没。北鬼柳5地割の自宅で寺子屋を開いたとされており、墓碑の建設に当って世話人7人、儀廣門人73名の名前が残されている。戒名 義學院贒演道廣居士。(現在の菊池キミコ宅の祖先) |
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